“この世の理”Vol.30「“海”と“波”の関係性」

「“海”と“波”の関係性」

『わたしたちは、海である』

そう耳にしたり、文字で読んだりとしたら、どんなことを感じますか?

わたしたちは、“自分”という意識をもって生きているとき、「波を生きている」と表現することができます。

個々人が違っていて、異なる動きをしていて、異なる特徴や個性の組み合わせを持っていて。

そこで、本来は『みんな海である』、つまり『みんな同じである』という概念を、より深い部分に持っていれば、苦しさなどに囚われにくいはずなのですが、

わたしたちは、良くない意味での「人との違い」や「差」を感じたり、他者と「比較」することによって、苦しくなったり、悲しくなったり、傷つきやすくなったりします。

そのとき、実は、『わたしたちは海である』という概念・感覚を忘れているのです。

それを、今回は思い出していただきたい(読むたび思い出すキッカケにしてほしい)と感じ、文章として残すことにしました。

個々人それぞれのように見える「波」は、実は『海の一部』です。

そして、海自体を中心にしてセカイを捉えてみると、海の中の波は、お互いにどこかつながっていて、境目はいつも分かりません。

でも、確かに「波」はあり、お互いに組み合わさったり溶けたりして、ずっと動き続けています。

ただ、全体を俯瞰すると『海』であり、どんな「波」も『海ではない』とは言えないですよね。わたしたちは『同じ海』です。切り離れることも、ありません。

ところが、わたしたちは、ともすると自分は「特別な波だ!」と主張したくなり、それによって逆に自分を苦しめているところがあるのでは、と感じています。

「特別な波」に、仮になったとしたら、それは逆に孤独を感じたり、孤立を感じる元になるような氣がしますし、いつも目立って落ち着かないような感じがしますが、あなたは いかがでしょうか?

そして、『海』という単位において、それは重要なことなのか?と自問自答してみると,

それは おそらくNOであり、全体的な景観の美しさを考えても、特殊な波がある方が景色としては邪魔な感じもします。笑

では、なぜ わたしたちは「特別な波」になりたいと感じることがあるのでしょうか。

それはきっと、何かが「足りない」「不足している」「無い」と、どこかで感じてしまう(誤解してしまう)からだと、わたしは考えます。

そこで『わたしたちは海である』という状態に戻れると、そんな“特別”はそもそも存在せず、そして、不足や無い、という感覚も幻想であった、というところに戻れるかと思います。

ぜひ、瞑想と組み合わせてやっていてみてください。

全体が『海』だとして、自分は他と切っても切れない「波」として“運ばれている”、それは、どこに行こうとしているのか・・なんてことを感じてみると、自分の人生や命が どこへ行こうとしているのかを感じる、ひとつの良いキッカケになるかもしれません。


最後まで読まれましたら、また、考えたり、ワーク等されてみた場合に、アウトプットお待ちしてますー!

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