“この世の理”ライブラリvol.14「すべて自分がやらかしていると○○○られるかどうか」

「すべて自分がやらかしていると○○○られるかどうか」

※本投稿はIndividual Wisdom音声収録前(10月28日)に執筆されました。

○○○に入ることば、ピンと来ますでしょうか。

“やらかしている”とは、敢えて、こうした表現をしています。

綺麗なことばを使うと、『世界は自分が創っている』
創っている、にしても、やらかしている、にしても、どちらも「自分が」というところが肝です。

これを『自作自演』と表現する人もいるでしょう。

それをどれだけ認められるかどうか。
はい、○○○られるかどうか=みとめられるかどうか、です。


正直、わたしにとっては、「ただ認める」って、まだよく分かっていません。

でも、体感として、タイトルにした、「わたし、めちゃやらかしてる!随分と捻くれてたじゃん。ややこしい!うわー、これを今、回収してるのか」という氣づきって、人生のところどころで起こります。

ただ氣づけたらいいし、ただ認められたらいいのですが、少なくともわたしの場合、“何か事が起こって”それに氣づかされることが、人生で繰り返し続いています。

今の、耳の障りなんて、過去最大級の出来事に、もはやなっています。

まだプロセスの途中なので、これはもう少し後に、何らかの形でシェアしたいと思いますが、おそらくは4〜5歳のときにしたことを、“回収”している感じがします。

いつも氣づいた後に思うのですが、ヒントやメッセージは、昔から散りばめられていたのです。わたしの場合、一番最初はおそらく2番めの実の姉が、わたしが大学生くらいのときにヒントをくれていました。その後、長く心理学の臨床やヒーリング、プロカウンセラーになるまでのあれこれを教えてくれたトレーナーも、別の表現で教えてくれていましたし、今よく関わっている方々も、みな表現は異なれど、“氣づくと”同じことを言っていると「分かる」のです。

最初の姉のヒントから数えると、20年間くらい、たびたびヒントや教え、メッセージはいただいていました。そうだそうだ、途中で、そのど真ん中みたいなことを帰りの電車の中でイキナリ伝えてくれた方がいて、自分の頭としてはピンと来ていないのに、めちゃくちゃ涙が出る。みたいな経験もありました。

そのとき氣づきたかったなぁ・・(そしたら今の毎日の耳の痛みの辛さは無くて済んだ)とも思いますが、そのときは、なんかめちゃくちゃ泣けることを言ってくれた、こんなに瞬時に“分かって”くれた人はいないかも、感謝だなぁ、嬉しすぎる、“ちゃんと観えてる人なんだ”って思ってたんですよ。

おもしろくないですか、そこまで思っているのに“氣づいていない”のですから。


今回のことは、今、Individualistic Program2期で取り組んでいただいてる深層心理分析(家系図やカルマの炙り出しなど)と、とあるヒーリングの実践との兼ね合いで、起こりました。

皆さんに取り組んでいただいていることは、まず自分で先に取り組むのが、わたしの常です。体験していないことは、伝えられないですから。

そしたら、この耳の障りが起こった。

事象としては、20日以上、書くことと、少しの話すこと、以外の仕事はまったくできてなく、常に耳は痛い、口が小さくしか開けられず、咀嚼も十分にできない(噛むと痛いから)、夜も痛みで1時間前後ごとに起きながら、何とか睡眠を足し算でとっている、

夫からは、「顔は腫れてるけど、こけてるよね」と、一瞬???となるコメントをもらっている状態です。

間のプロセスは少し端折りますが、カルマについて最初に教えてくださった方や、とあるヒーリングをマンツーで教えてくださる方、その他、今現在つながっていて、いろいろやり取りしている方々と、今の出来事についてシェアしていたら、出てくるコメント・行き着く結論が『同じ』で。

え?と、そのときはピンと来てなくて、でも、“そうなのか・・?”と振り返ってみたら、歴代の人たちも、同じようなこと言ってたやん!!!という氣づきにつながりました。

氣づいてしまうと、なんだよーーーーそれかよーーーーってなるのですが、しかし、今回はちょっと毛色が違っていて、まだ“どうしたらそれに変化をかけたことになるのか”分かっていないのです。行動指針が、湧いてきていません。ちょっと珍しい、これを“根深い”と言った人もいます。だから、今も耳が痛いのだと思います。

なので、ここを超えてから、もちろん、痛みがあっては十分なセッションをご提供できないという理由もあるのですが、超えてから該当の皆さんとセッションさせていただくことが、一番いい結果につながると感じています。


氣づいて、認めてみると、

“あーーー、わたしは、こんなにこれらをどうしたらいいのか分からないんだ”、ということが「分かり」ました。

すっかりやり方を忘れちゃったよーーーという感じもあれば、“え?それに「やり方」なんて無いでしょ”とつっ込んでくる自分もいる。あとは、辞め方が分からないというか、氣づいたからには手放したいけど、“どうなったら手放したことになるんだ?!”というくらい分からないことが「分かり」ました。

そう、いずれにせよ、分からないということが「分かった」に過ぎないのが、今です。

なんじゃそれ?そしたらどうなっちゃうのよ?何の結論でもないじゃない、と、すぐに考えるのが、これまでのわたしでした。分からない?それじゃ進まないじゃない、と。

でも今は、『分からない、というところまで分かった』という状態であることに、なんだか満足しているのです。これが認める、ということかな、とも。

分からないってカッコ悪い、とか、情けないとか、そういうジャッジがない状態です。

ただ、そうである。

だからどうする?、という感じでもない。「ただ、そうである」という状態を、ただ、生きてみる。すると、次のタイミングって、自ずとやってきそうな、そんな感覚です。

無理にスピーディーに何とかしたい、と、今では思わないから不思議です。昔は、なんでも早い方が良かったですから。

ただ認める、ということを、ひたすら愚直に繰り返していったときに、どんなことが起こるのか、今はそれが楽しみです。すでに“氣づいた”時点で世界は変わっているのですが、感覚としては、“なんか上手にできてない”って感じなのです。

そんなことも不要だよ、と自分に語りかけつつ、“上手にやらないと、って思ってるのかぁ”と、また氣づいて、ただ認める。

そんな今を過ごしています。


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