“この世の理”ライブラリvol.07「“懺悔”という感覚」

※補足音声あり(本記事末)

「“懺悔”という感覚」

小学生のときの記憶です。

たまに小学校の門や入り口のところに、キリスト教の信者さんのような方が立っていて、キリスト教のパンフレット?みたいなモノを渡されるのが、とても嫌いでした。何のために渡されているのか分からず、声をかけてくるし何だか怖い、雰囲氣も好きじゃない。

そのころは宗教について、興味自体ほとんどなく、ぜんぜん知識的に分かっていないことだらけでしたが、“何となく嫌だな”と感じていたことが、「あぁ、なるほどな」と、今は知識的に分かってきています。


少し、話はズレますが、「聖書」と「キリスト教」とは、“分けて考える”必要があると感じています。

そう感じるに至った内容を知るまでは、わたしの中では完全に、「聖書=キリスト教」というイメージでしたので、けっこう驚きました。

今では、「聖書」に書いてあることは、生きていく上で知っておきたい、読んでよく理解したいし、それそのものを生きてみたいと思わされることが多いですが、それに反して、キリスト教に対しては、“ぜんぜん聖書的じゃない人たち・集団なんだなぁ”という印象が強いです。

もちろん、中には、敬虔な信仰者(聖書的な生き方を実践している方)もいらっしゃいます。しかし、そういう人を探す方が、いわゆる“狭き門”というイメージがあります。


なぜ、この話を挟んだかと言いますと、これはわたし個人の印象ですが、昔のわたしだったら、“懺悔”ということばを見ただけで、小学生(特に低学年)のときに感じた“嫌な印象・感情の記憶”が先行して、「読んでいるけど中身が入ってこない」ということが起こりそうだなぁと思ったからです。

わたしの場合、徐々に、陰陽師の末裔の方や、信仰心の塊のようなプロテスタントの牧師さんなど、いろんな立場から聖書を「科学的に」「第一級の歴史書として」分析して教えてくださる人に出会わされてきたおかげさまがあり、これがおもしろいことにみんな“どなたかからのご紹介”でご縁いただいてまして、徐々に“嫌なイメージ”が薄れ、今では聖書の解釈学や聖書が本当に教えていることを学び深めるのが楽しくなっています。今やこれからの世界情勢を読むこともできるので、それがまたエキサイティングだったりします。

そうしていましたら、また面白いことに、今後は仏教のエキスパートみたいなご住職様に出会わされ、この方は同時に、比較宗教学者としてのお顔もお持ちなので(某有名な海外の大学で修士も博士も取得され、海外でも日本でも大学教授をされてきた)、あらゆる宗教を理解したり現場を踏んできた上で“懺悔”について語られていて、

その意味をわたしなりに受け取った瞬間、「“懺悔”って人を、特に『人の心を』豊かにする」と感じたんですね。自然と謙虚にもなれるイメージが湧いて、とてもワクワクしました。


この“懺悔”

わたしたちがよく発する「ごめんなさい」、いわゆる「謝罪」とは一線を画すモノだと感じています。

ごめんなさい、とは、何か明らかに悪いことをした場合に発することばですよね。それはそれでいいのですが、

一方で“懺悔”というのは、たとえば、「ただ歩いているだけで、虫やアリを踏んで殺生しているかもしれない」といったことに対してするモノだと、わたしは感じ取っています。

良かれと思ってやったことが、長い目で見てみたら良くない結果に結びついてしまった。これって、時に受け入れ難い事実ですよね。誰かを騙そうと思ってやったわけじゃないし、良くない結果を生もうとしてやったわけでもなく、結果が良くなかっただけであって、動機はそうじゃなかったわけで。

でも、そうした時に、その結果を真摯に受け入れて、「悔い改める」こと。それをするのが“懺悔”、という認識を持っています。

謝罪が割と、表面的なことと言いますが、現実的な、物理的なところで行われているのに対して、“懺悔”は、深いところまで感じ入っている印象があります。


ちなみに、「悔い改める」ということばも、以前のわたしにとっては非常にキリスト教的な響きを感じていて、なかなか受け付けませんでした。

でも、こちらも理解を深めていくと、自分が何かをしてしまったときに、「神の道から外れてしまった、それに氣づきました、ごめんなさい。深く反省して心を入れ替えて、また神の道を歩みます」と、素直に告白して、氣持ちを改めて、道を正して生きていく。

そういうことを表すことばだと知りました。

キリスト教=罪が絡んでくるイメージがあったわたしとしては、悔い改めるって、罪を償って、何だかとっても大変なこと(刑罰を受けるとか)をしなきゃいけないイメージを勝手に持っていたのですが、

知ってみると“とてもやさしい”世界観で、何度だって悔い改めたら、その瞬間、また神の道に戻れるといいますか、お咎めがないんですね。

聖書って本当におもしろいと言いますか、神がとっても厳しく感じられて、すごくストレートに突いてくるなぁ、イタタタタ・・みたいなこともたくさん書いてあります。

だけど、「悔い改める」のように、素直でいたら、氣づいて、反省して、心を入れ替えて生きると決めると、スッと神の道に戻ることができる、そんなやさしさも感じられる書物・教えです。


わたしたちは、清く正しく生きているつもりで、おそらく毎日虫を潰していると思いますし、良かれと思って言ったことばに傷ついている誰かも出ているでしょうし、そのときのベストや正解を選んでいるようで、だいぶ後になって間違いだった、自分にも周りにもマイナスの影響を与えてしまう結果になってしまうことだって、ありますよね。わざとじゃなくても。

そんな時に“懺悔する”という概念・感覚を持っていると、「ゆるされている」という感覚が入ってくると思うんですね。

「わたしは正しく生きています!」「清く生きています!」

それはそれで素晴らしい姿勢ですし、あり方だと思います。一方で、今ここでの選択や実践が、本当に誰にとっても100%プラスにはたらいているかどうか、すぐには分からないことがほとんどですよね。マイナスにはたらく可能性もあるということを、ニュートラルに、常に冷静に俯瞰して見ている、それが“懺悔”という感覚とともに生きている人の在り方なのでは、と感じています。


正しくあろうとするよりも、いつでも“懺悔”の想いとともに生きている。

いつも自分が間違っているかもしれないし、誰かに害や悪影響を与えているかもしれないし、知っているようで何も分かっていないのかもしれない。それが事実かどうか、というよりも、そうした“想い”で生きてみる。

そのほうが、よっぽど「しあわせ」に、肩の力が抜けた状態で、世界を信頼して生きているように感じませんか?

わたしは今回書いた内容が、自分なりに腑に落ちたとき、“懺悔”の氣持ちで生きるって、とても謙虚でやさしくて、傲慢にもならずにいられそうで、とってもいいなぁと感じまして、今回、お伝えさせていただきました。

読んでみての感想、氣づきや思ったことなど、ぜひ教えてくださいね。

補足音声


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