“この世の理”ライブラリvol.05「愛が自分だった」

「愛が自分だった」


今日のタイトルを読んで、どんなことを思いますか?

または、どんなことを感じるでしょうか?


わたしたちは、「愛を与える」とか、「愛を受け取る」、、みたいな表現を使いますよね。
そのときの主語って、「わたしが」のように、人間が入りますよね。

ともすると、人間が愛をどうこうできそうな雰囲氣がありますが、それは本当でしょうか?
条件付きとか、無条件とか・・愛に関して、それはあり得るのでしょうか。

「わたしが誰かに愛を与える」
「わたしが誰かの愛を受け取る」

心理学に馴染みがあったりすると、よく耳にするようなことばかもしれません。

わたし自身、心の世界に長くおりますから、たくさんこうした表現を使ってきましたし、人にもお伝えしてきています。

でも、よく思うんです。そして、思ってきました。

“「愛を与える」って、何なんだろう?そもそも「愛」しかないような氣がするんだけど。”

というようなことを。

でも、いきなりはこんな話は通じないよね、と、人によって段階に分けるというか、噛み砕いてお話をさせていただときに、「愛を与える」とか「愛を受け取る」といった表現を使った方が分かりやすい(脳みそで理解しやすい)場合には、そうお伝えしています。


でも、実際は主語が逆で・・

「愛が自分だった」としたら、どんなイメージが湧きますか?


どんなことをしていても、すべて「愛」ですよね。

わたしたちは、自分の選択や行為が、“愛ではない”と判断するとき、悩んだり苦しんだり葛藤したりするのではないでしょうか。

よく感じてみてください。

どんなことも、大元は「愛」から発生しているはずです。


「天氣がいいから人を殴ろう!」とか、「氣分がいいからアイツに嫌がらせしよう」なんて思う人は、基本的にいないと思いますし、

何か、良くないことしたな、ということを起こしてしまったとしても、基本的に最初から、「良くないことしてやるぜっ」という感じでやるわけではないと思います。

何か自分の氣持ちがクサクサするようなことがあって、それが解消できないまま時が進んでしまった場合に爆発したり、何か抑圧や我慢をしているとして、それに氣づかずに過ごしていると、どこかでバランスを取るように尖ったことをしてしまいますので、それが問題になってしまったり。

物事が発生した大元を探っていくと、そこには「愛」が見出せるというか、愛じゃないことって、見出せないと思います。

こうしたことをお伝えすると、“こういうことがあって、これも愛なんですか?!”と、怒っていたり悲しみにくれていたりするお話も伺うのですが、それでもいっしょに丁寧に見ていくと、「愛」に辿り着きます。

そして、そこにたどり着くと、憑き物が落ちたように穏やかになったり、急にいろんなことがゆるせる氣持ちになったり、自分にも「愛」が戻ってきたかのようなことが起こります。

でも、実は、どんなことが起こっても、最初からずっと「愛」だったとしたら・・


何事も、そんな目で見てみてほしいのです。

『愛が自分だった』と。


きっと、しっくりくる瞬間がくるのでは、と思っています。

そして同時に、穏やかさにも包まれると思います。
特に氣持ちがクサクサしたり、ネガティブな感覚に包まれたときに、思い出してみてください。相手や自分を責めそうになったときにも。

自分で自分を救いあげる一手となってくれると思います。


わたしたちが人間である限り、まるで“愛から離れてしまったような瞬間”って、いつでも起こり得るのです。

だから、いつでも瞬時に「戻れる」手法を複数もっておく。

そこには瞑想も入るでしょうし、呼吸法も有用でしょう。写経もいいですね。これらはわたしが持っている手法の一部です。

「愛」をいつでも見てくれる人に会いに行く、という方法も大変有効です。


“愛から離れてしまったように感じる瞬間”自体をなくすことは、いい意味であきらめた方がいいと思います。

人間であるかぎり、死ぬまで起こり続ける、あり続けると。限りなく無くしていくこともできますし(修行などで)、でもそれよりわたしがオススメするのは、「そういうことがあってもいい、あるのが人間だ」とゆるしておいて、そうなってしまったことにすぐに氣づけるようになり(ゆるしているだけすぐに氣づけます)、氣づいたらすぐに戻れるような手法や手段、手順などを持っておくこと。

いちいち絶望していたり、自分自身にガッカリしていたら、身が持ちませんから。

あ、体力があるタイプの皆さんは、身は持ちます。体力があるので。だけど、ずーっとジワジワ苦しい感じが続くと思います。それはそれでキツいというか、あまり歓迎したい状態ではありませんよね。


「愛されない」と、嘆く人がいます。
「愛されたい」と、望む人がいます。

このとき、同じことが起こっています。


『「愛が自分だった」と忘れている 』


愛が自分であったなら、「愛されない」も「愛する」も、存在しないのです。
あなたが何をしてても、「愛」から離れることはないからです。


今回の内容は、これはこういうことですよ、と教えているような内容ではありません。

今回の内容を読んで、自分なりに深めていってほしい内容・テーマとして挙げてみました。


皆さんそれぞれ、どんなことを考え、どんなことを思い、どんなことを感じたり氣づいたりされたのか、またフォームからお送りくださいね。


もしよかったら、アンケートに回答ください。

タイトル一部、記事ナンバーなど判別できる部分で良いので記載ください。









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