「“分離”という幻想」
この世界の問題は、すべて“分離”から起こっている、という物の見方があります。
① 十月十日、母親のお腹の中にいて、臍の緒でつながっていたのに、ある日突然、目も眩むようなまぶしい世界に生まれて、臍の緒は切れて、母親と“分離”する。人肌を離れると、寒い、冷たい、を感じる。さびしい。
② 2人めの子どもが生まれる。それは弟か妹。母の愛がまるで“半分”になったかのように感じる。自分だけだったら、親からの愛は100%だったものが、下の子が生まれたことによって、それが“二分された”感じがする。かなしい。さびしい。
③ 恋人と、ふたりでいるのに、そういう感じがしないとき。ひとりでいるときよりも、なぜか寂しさは強まる。ふたりでひとりのように感じるときには、とてもあたたかくて、やわらかくて、しあわせ。ふたりでいるのに、まるでひとりのように感じるときには、ひとりでいるとき以上にさびしく感じる。空虚だ。
④ あの人と、わたしは、“違う”。同じものを見て、異なる感覚を得る。それを楽しめるときはいいが、分かってもらえないと感じると、“分離”を感じて、さびしい。大きく見れば、同じ人間だったり、同じ女だったりするのに、そこではつながれない感じを感じてしまう。
⑤ とある会場に、何十人と人がいる。自分以外の人たちは、みんなつながっていたり、友だちであったりするように感じる。自分には、知り合いがいない。浮いてる感じがして、いたたまれない。帰ろうか。さびしいし、どうしたらいいのか、分からない。
わたしたちが、何かを「問題だ」、つらい・悲しい・さびしい・・etcと感じるとき、その原因や理由はどこにあるのか、それを自分なりにイメージしたり、深めていってみると、どこにたどり着くでしょうか。
ほとんどすべての場合、“分離”という状態にたどり着くのではないかと思います。
分かれている。離れている。別々である。あの人とわたしは違う。宇宙とわたしの間には隔たりがある・・etc。いろんな表現がありますが、ひとつのことばにまとめるとしたら、“分離”ということばが、もっとも当てはまるのではないかと思います。
でも、よくよく考えやイメージを深めていくと、「分離は幻想」であることも、同時に分かってくるのではないでしょうか。
上の5つのケースについて、物の見方や捉え方、解釈の仕方や目線・切り口を変えて、表現してみたいと思います。
❶ 十月十日、母親のお腹の中にいて、臍の緒でつながっていたのに、ある日突然、目も眩むようなまぶしい世界に生まれて、臍の緒は切れて、母親と“分離”する。人肌を離れると、寒い、冷たい、を感じる。さびしい。
→たしかに肉体という物質的には別々になってしまったけれど、精神的にもエネルギー的にも、わたしたちの間に、実は隔たりはない。人肌を離れると寒さも感じるけど、こういうの初体験!寒いが分かると、あたたかい・しあわせ・うれしいが分かる。肉体的に母親とくっついても温かいし。新しい世界は、楽しい!!
❷ 2人めの子どもが生まれる。それは弟か妹。母の愛がまるで“半分”になったかのように感じる。自分だけだったら、親からの愛は100%だったものが、下の子が生まれたことによって、それが“二分された”感じがする。かなしい。さびしい。
→親の立場になってみると、いちばんリアルに感じますが、子どもが何人いたって、全員に100%。愛を半分ずつ、なんて、そんな器用なことできる方がすごいというか、超技に思えます。そのときの目一杯を、親はいつも出すのみです。子どもが何人、いようとも。
❸ 恋人と、ふたりでいるのに、そういう感じがしないとき。ひとりでいるときよりも、なぜか寂しさは強まる。ふたりでひとりのように感じるときには、とてもあたたかくて、やわらかくて、しあわせ。ふたりでいるのに、まるでひとりのように感じるときには、ひとりでいるとき以上にさびしく感じる。空虚だ。
→こうしたときに、自分からつながりにいってみると。案外、相手は悪氣なく、そういう状態であっただけ、だったり、声かけすれば、こちらにエネルギーを向けてくれたりする。または、今はそうしない/できない理由が分かるから、安心して待つことができる。相手とつながらずに、勝手に分離を感じるとさびしいけど、自分からつながりにいけば、そんなことないって、すぐに分かった。
❹ あの人と、わたしは、“違う”。同じものを見て、異なる感覚を得る。それを楽しめるときはいいが、分かってもらえないと感じると、“分離”を感じて、さびしい。大きく見れば、同じ人間だったり、同じ女だったりするのに、そこではつながれない感じを感じてしまう。
→“分かってもらえない”と思って、そこで止めてしまうと、そこで終わってさびしくなる。“分かってもらうには?”と考えて、伝える努力、伝え続けることにチャレンジしてみる。すると、そのプロセス自体がいつの間にか楽しくなってきて、“分かってもらえてるかどうか”なんて、あんまり関係なくなってきた。そうしているうちに、実際に相手に伝わった。分かってもらえた。案外、世界ってそんなものなのかもしれない。
❺ とある会場に、何十人と人がいる。自分以外の人たちは、みんなつながっていたり、友だちであったりするように感じる。自分には、知り合いがいない。浮いてる感じがして、いたたまれない。帰ろうか。さびしいし、どうしたらいいのか、分からない。
→目線を、自分から外して、周りや他者に向けてみた。すると、見えてくる。“自分と同じように感じていそうな人”が。自分とその人は同じ感じがするから、同じことを感じていそうだから、胃自分から声をかけてみようか。声をかけてみたら、相手がとてもホッとした表情を見せてくれた。それは、逆の立場だったらわたしの表情だったのかもしれない。“(自分と同じ)誰かがいるのかも”と、少し外に目を向けたら、案外すぐに、誰かとつながれるものなんだな。
この書き換えは、どれも“一例”に過ぎませんので、書き換えの仕方や目線の転換の仕方は、それこそ人の数だけ種類があると思います。
この書き換えの発想は、“分離”を幻想だと捉えたところからスタートしています。「本当はすべてに隔たりがない。そうだとしたら?どんな世界や状況が見えてくる?どんな行動や発想が考えられる?」そんなイメージをしながら、ことばを綴っていったものになります。
1〜5のどれも、現実で起こっている客観的な出来事は同じです。物理的なシチュエーションは、まったく同じ。でも、これだけ、書ける内容は変わります。
分離を選ぶのか、それとも「隔たりはなかった」という状態を選ぶのか。
いつもわたしたち次第。自分で見る世界や感じ取る世界を、わたしたちは好きなように決めたり、選択したりすることができます。
ここからは、ちょっと言語化をむずかしく感じる内容なのですが・・チャレンジさせていただきます。
わたしたちの思考は、1日に6万回するとも7万回するとも、伝えられています。最新の研究では6,200回というものもありますが、これはまだ研究プロセスに検討の余地があるので参照程度に。さらに、思考した先の決断の数は、1日35,000回もあるそうです。
幻想、という話題に戻ると、実は「思考=幻想」なんですね。思考に入った瞬間、わたしたちは「今ここ、という状態から離れます」。
考えているときは、感じられない。
感じているときには、考えられない。
というのが、わたしたちです。感じるのか、考えるのか、どちらかしかできないんですね。そのため、考えた瞬間、感じることはできなくなり、「今ここにいない」という状態に入っていきます。
今ここにいないなら、では、どこにいるのか?
それが幻想の中であり、ことばを替えるとしたら、ストーリーの中にいる、という感覚です。そこはリアルではない世界。思考に入った瞬間、感覚が切れます。いま座っている椅子の感触、触れている物質の固さや温度、周りで発生しているはずの音、消えていきます。リアルから離れていく。イメージが湧きますでしょうか。つまり、“分離”がはじまります。
思考はとてもうるさいですね。研究進化中とはいえ、最低でも6,200回、一般的には1日6〜7万回とも言える回数、わたしたちはリアルと幻想・ストーリーの中とを、行き来しているのです。
いつも、「今に戻る」意識で。思考をするときは、今から離れる、旅に行くようなモノだと捉えてみてください。今ここに戻ってきたときは、“ただいま”、という感じで。思考を離れる=リアルに戻ってきた感覚。
そんな感覚を持って、日々日常を過ごしてみてください。
また、上記を実践してみたときに、何か氣づきや発見などがありましたら、コメント欄などでお知らせくださいね。
わたしもまだまだ研究中。きっと完璧に言語化することはむずかしいようにも感じていますが、できる限りの言語化を、まだまだ磨いていきたいと思っています。
そして、“分離”について。
“分離”とは、幻想です。幻想ということは、リアルではない。
何か物事を選択したり、人を見極めるときに、そこに“分離が起こっているかどうか”であるとか、何かを聴いた・耳にしたときに“分離を感じるかどうか”という目線をお持ちになると、その選択をするのかどうか、その人とのご縁を今後も紡いでいくのかどうか、決めやすいのではないかな〜と思います。
分離を想起させるような、分離を感じさせるようなことは、選ばなくていいと思います。
ただ、分離を促したい人たちや存在がいるとしたら、彼らは頭がいいですから、分離を分離と見せません。わたしたちにも、賢さが必要な部分です。
たとえば、全体管理。健康が脅かされないように、経済が回るように・・一瞬、世界にとって、人々にとってイイコトを言ってそうですが、ひとつ、その奥を見る視点を忘れずに持ってみてください。
「管理」なんです。これって、しあわせですか?管理によって、安心が生まれる感じがするかもしれません。でも、管理をゆるす=拘束をゆるす、ということでもありますよね。自分たちのために“管理してもらえている”、この恩恵は、角度を変えたら“管理される”となります。それって・・あなたは、望みますか?
全体管理、というと、「全体」ということばがあるので、分離とは対極のように感じるかもしれません。しかし、“管理された”瞬間、すべてから分離されるイメージが、湧きませんか?そして、管理する側と、管理される側に分かれます。これはつまり、分離ですよね。
こうしたことはあくまで一例ですが、こんな感じで世界や世の中を見ること、ぜひトライしてみてください。何を選べば、自分が生きたい世界、自分を含めてみんながしあわせな世界を生きられるのか、自分なりの決断が早くなったり、シンプルにスッキリ選択できたり、できるようになります。
もしよかったら、アンケートに回答ください。
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